その他

こちらでは、所長代理が各国で見聞した戦争と平和に関する写真などを掲載しています。

■イラン(2015年12月訪問)
首都テヘランの地下鉄で発見したポスター

テヘラン郊外のダルバンド
テヘラン市民のデートスポットや友人、家族でチャイハネ、シーシャを楽しむ場所ということで、老若男女が集まっていました。

テヘランにあるTehran Peace Museum
イラン・イラク戦争の時、イラクによって使用された毒ガス兵器などを中心に展示している平和ミュージアムです。

テヘランにあるHoly Defense Museum
イラン・イラク戦争の資料をガイド付きで見ることができます。所要時間は1時間30分から2時間ほどです。
展示の最初の部分は、皇帝(シャー)モハンマド・レザーの圧政に対する国民の抗議運動が広がり、1979年にイラン革命が起こる時のものでした。

テヘランにあるEbrat Museum in Iran
ここはシャー時代の秘密警察であるSAVAK(Organization of National Security and Information)が実際に政治犯を投獄していた収容施設で、現在は博物館に改装されており館内を見学できます。
同館内の内容については、こちらの一橋大学 水岡ゼミナールの報告によく書かれています。

■中国(2016年12月訪問)
哈爾濱(ハルピン)にある侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館

■北朝鮮(2016年末~2017年始訪問)
平壌の街並み

乗り物(平壌)

大晦日に新年を迎えるカウントダウン花火(平壌)

平壌から韓国との軍事境界線近くの開城(ケソン)へ

朝鮮半島を初めて統一した高句麗の首都開城
北朝鮮で5番目に大きな街で、世界遺産もあります。

軍事境界線にある板門店
ここは雨がたくさん降ると川が氾濫し、橋を流したため、そこに商売人たちが板を渡していたことから、板門店と呼ばれるようになったとの説明を聞きました。

■韓国(2018年5月訪問)
釜山にある国立日帝強制動員歴史館
展示物の多くはハングル、英語表記でした。

陜川(ハプチョン)にある原爆資料館
陜川は日本で被爆した方々が多く住んでおり、韓国のヒロシマと呼ばれています。2017年に韓国で初めて原爆資料館が設立されました。

ソウルにある戦争と女性の人権博物館
貸し出しの音声ガイド(日本語あり)を手に持ち、館内を巡ります。売店では邦訳資料も何点かあります。
最寄駅から少し離れているため、タクシーを利用しました。

■台湾(2018年10月訪問)
宜蘭県
特攻隊飛行跡地、旧宜蘭監獄署、宜蘭設治記念館を訪れました。

霧社事件(南投県)

台北市
阿嬤家-和平與女性人權館

慰安婦、ホロコーストについて問題提起している展示館です。

台北二二八紀念館

■ボスニア・ヘルツェゴビナ(2019年6月訪問)
サラエボ
War Childhood Museum

子どもの視点から、かつての戦争の思い出を振り返る内容を展示しています。ヤスミンコ・ハリロビッチ館長の著書『ぼくたちは戦場で育った』も日本語に翻訳され出版されています。

Gallery 11/07/95
サラエボが包囲され攻撃されていた当時の様子などが、大きな写真や映像とともに展示されています。

Museum Of Crimes Against Humanity And Genocide 1992-1995

■韓国(2019年10月訪問)
釜山・碑石文化村
日本が植民地化していたときに、日本人が共同墓地を作りました。朝鮮戦争により戦火を逃れてきた朝鮮の人々がその墓地の上に、家を建て、今では碑石文化村と呼ばれています。そのため、それらの墓地の石碑の建材などを今でもところどころに見られます。

釜山近代歴史館
日本により、どのような意図から植民地化されたのか、その政策などについても日本語で読むことができます。

ソウル・孫基禎記念館
ナチス政権時のベルリンオリンピックで日本代表(植民地化の朝鮮半島出身)としてマラソンで五輪新記録を出し、金メダルに輝いた孫基禎(ソン・ギジョン)選手の記念館です。孫基禎さんは、その後、明治大学に入学するも、(日本政府に)箱根駅伝には出るなと言われるなど、厳しい環境下に耐えながら、その後、多くのスポーツ選手との交流に尽くしました。書籍『評伝 孫基禎』に孫さんの人生が描かれています。

■香港(2020年1月訪問)
香港理工大学
2020年11月、警察に包囲され、警察とデモ隊との激しい衝突の起きた香港理工大学は、障害物により囲まれていました。入口にはテントがあり、そこで入場者をチェックしていました。香港中心部にある大学前の地下通路には多くのメッセージが生々しいまま、書き残されていました。理工大学とその周辺では、警察は11月18日だけで約1,400発の催涙弾を学生に向けて撃ったといわれています。

香港中文大学
丘の上にある香港中文大学も学生と警察の間で衝突が起きました。構内には学生が使用した傘、そして警察が使用した非致死性兵器である催涙弾、ゴム弾の薬莢(やっきょう)が落ちていました。この催涙弾は有毒なダイオキシンを発生させていると疑われています。中文大学では、警察は11月12日だけで約1,000発の催涙弾を学生に向けて撃ったといわれています。

■ブルキナファソのトーマス・サンカラ(※wiki
アフリカ西部の国ブルキナファソのトーマス・サンカラを知っていますか。アフリカのチェ・ゲバラといわれた人物で、無血クーデターで政権を奪取後、国民のための政策を試行錯誤して実行した人物です。サンカラについて日本語での情報が少ないため、以下の本の一部を仮訳し、掲載します。ただし誤訳も多いため、正確には原文を参照ください。

“THOMAS SANKARA: AN AFRICAN REVOLUTIONARY” ERNEST HARSCH, 2014

第4章 「国家の再考」
1983年8月4日、サンカラは仲間とともに政権を奪取した。彼らは自らの勢力を革命国民評議会(National Council of the Revolution, CNR)と呼んでいた。この翌日、オート・ボルタ(Upper Volta)の首都では彼らを歓迎する人々があふれ、それらの声は数か月にわたり国中に響き渡った。このときサンカラは33歳だった。彼はすぐに革命の構想を示した。それは、すべての市民のための国家であり、無知や病気、搾取の根絶、飢えをなくし、生活環境を向上させるための生産性のある経済への発展などである。彼はラジオでの初の演説で「男性、女性、老人、若者」に対して新しい革命防衛委員会(Committees for the Defence of the Revolution, CDRs)を(各地で)組織することを呼びかけた。
サンカラは革命国民評議会と政府という2つの組織の指導者として活動した。この評議会は軍人と文民によって組織され、ここに入っている人物は安全のために秘密にされていたが、サンカラ、コンパレオ、Zongo、Lingani、Valère Soméなどが入っていたことは広く知られていた。

<革命の構想>
サンカラは政権の奪取から2か月後、革命国民評議会の「政治的な方向性を示す演説(political orientation speech)」として知られる綱領を発表した。そこには植民地支配と「新植民地的社会」との間の差異はほとんど見られなかった。サンカラはいくつかの国家は外国による支配という課題を引き継いでいるだろうと語っていた。また、独立から23年経つオート・ボルタは、「大多数の人々からすると裕福な少数派のための天国であり、地獄のような状況を耐えることはない」環境だったと語っている。サンカラは5月に行った「人々の敵」に関する演説で、国内の主要な革命に反対する人々を「寄生的な階層」や地方にいる「反動勢力」として特定した。その一方で、主な支持者は「人々」であり、主に労働者、プチブルジョア、農民などだった。
また、彼はこの革命の特徴は民主的で民衆的なものであり、長期的な目標としては「帝国主義的な勢力や開発を排すこと」だったと語っている。そして、古い国家の機能の代わりに、新しい国家は「人々による人々のための民主的な権力の行使を保証することが可能に」なるよう作られるだろうと述べている。
サンカラが用いていた「民主的」という言葉には注意が必要だろう。それは一般参加型の民主手的な方法であって、西欧的な選挙という枠組みではない。実際、革命国民評議会が最初に行ったことのうち一つは、古いエリートたちの道具として見られていた国が設立した諸政党を非合法化することだった。議会の代表者を決める選挙は考えられなかった。この(革命防衛委員会という構造内を除いた)選挙の不在は、後にサンカラ政権の最も大きな欠点の一つと見られた。
1983年10月に行われたサンカラの演説では、マルキストの影響が見られた。サンカラはロシアや中国、キューバでの革命を評価していた。彼の執務室の本棚には、マルクス、エンゲルス、レーニンなどの本が多くあったが、聖書やコーラン、進歩的思想家の本なども幅広く読んでいた。サンカラはその革命の過程で、「社会主義者」あるいは「共産主義者」というレッテルが貼られないよう気を使っていた。
また国の再生を象徴するため、革命国民評議会は1984年8月に国名をオート・ボルタから、2つの固有の異なる言語から大雑把に訳された「清廉潔白な人々の土地(land of the upright people)」を意味するブルキナファソへと変えた。

<指導の形>
人々は、サンカラが考え、毎日実施することを通して、これまでのいかなる大統領とも大きく異なることに気づくこととなった。彼は慣習的な華やかさや式典を軽蔑していた。アフリカ全域で公的な建物に通常掲げられている大統領の肖像画を禁止した。若い活動家たちは彼の名前を唱えないよう勧められた。彼は普段から会合や公的な行事に参加する時には、高級車ではなく質素な車を利用した。一週間に一回、彼は顧問や職員、通行人たちとともにサッカーをした。その時のかっこうはジャージにショートパンツだった。彼は時々非公式に一般の行事に姿を現した。人々は、ジャージを着て、静かに立っている彼にそのうち気づくような感じだった。
このような形式ばらない姿勢は、指導者は特に貧しい国では最も質素であるべきであるということを伝えるために考えられていた。1987年、サンカラ最後の年、すべての収入と彼とその妻マリアム(Mariam)の資産を公開した。彼らはとても質素だった。サンカラはその地位を利用し、蓄財をしなかった。彼の2人の息子は公立学校に入学したままだった。運輸の専門家だったマリアムは政府の船舶機関で毎日働いていた。サンカラの両親は同じ家に住んでおり、彼の父親は退職していたが、母親は臨時収入をもたらす香辛料を未だに売っていた。
サンカラの弟ポール(Paul)は、アフリカのほとんどの国で行われていることとは対照的に、サンカラが家族に対して、地位を利用し、いかなる利益も期待すべきではないと語っていたと述べている。またサンカラは「何らかの見返りを求め、贈り物を持ってくる人々に注意するように」とも注意を促していた。
サンカラは数人の個人的な友人を高官に指名した。例えば、彼の従兄弟Ernest Nongma Ouédraogo内務大臣である。サンカラは、「本当の友人は、まさに私が好まないことでも私に話してくれるものだ」と述べ、彼らの忠誠を信じていた。
Alfred Sawadogoは、1984年から政変までの間、NGOの助言者としてサンカラとともに働いていた。彼はサンカラについて、「彼はいつも驚かせ、時には熱狂的で、喧嘩好きで、からかい、面白く、友好的で、温かかった。また時には厳しく、内にこもり、短気で無表情だった。ある時は叙情的で、詩的で、彼の言葉は力強く、深く、真実に満ちていた。しかし、いつも彼自身に対して正直で、彼は一人の国家主義者(nationalist)であり、理想主義者であり、注文をつけ、厳格な主催者でもあった」と語っている。
サンカラは、彼の考え方の評判が良くないときでも断固としていた。それにもかかわらず、彼が間違っていると説得されたときには考え直すことができた。サンカラの死んだ日に、彼は軍の同僚に渡さなければならなかった演説の下書きに、「誰かが私とは違う意見を取り上げる必要性を認めるとき、私と異なる立場を守るとき、我々は毎回利益を得ている…。私はその意見を助言に従い、採用し、実行する」と書いていた。
サンカラは新しい技術を含む、新しいことに対して勉強熱心だった。一度、アフリカではコンピューターがほとんどなかった時に、彼は閣僚とともにその使い方を学んだ。そして彼は英語も勉強し始めた。
サンカラの仕事のやり方は型破りだった。陸軍士官学校で厳格な計画や戦略的な考え方を訓練されていたが、彼らがどのように実行できるのかほとんど明確な計画がない中、サンカラは時々その場その場の方法で指導力を発揮した。「サンカラは官僚主義的な考え方とは正反対だった」と、前出のSawadogoは語る。サンカラは形式主義や面倒なこと、遅い手続きなどを嫌った。Sawadogoは大統領のそばで、「早く仕事を行い、早く考え、早く実行し、決断し、彼らに対して完全に責任を負うこと」を覚えた。サンカラは、誰かが彼に今まで試されていなかったことや、実行が不可能だと告げることを嫌った。彼はしばしば、「人が想像することができるということは、それを実行できるということだ」と公言していた。時間とともにSawadogoは、実行不可能に見えるものに対して取り組むことを覚え、大統領と働き、彼らが今まで夢見ていたものよりも多くのことを達成できたこと、彼らは可能な境界線を押し出すことができたことを思い出した。
普通のブルキナファソの人々は、すぐにサンカラのやり方を採用したように見えた。彼ら・彼女らはかつて見たことがあるが、現実から離れた空想であった、地域社会の中での新しい学校や診療所、他の施設の早期の建設に参加した。しかし、公務員の多くはその前進に対して動きは遅かった。サンカラは、彼らがより早く効果的に人々の求めることに対して動くよう説得しなければならなかった。

<官僚機構の統制>
最初の優先事項は公務員を説得することだった。革命国民評議会は、公共財は神聖であり、公務員は国民のために勤めるのであって、公務員自身の為ではないと述べていたほど、真剣だった。国家が独立した最初の20年で、たったの30件ほどの経済犯罪が提訴され、そのうちの僅かが高いレベルでの犯罪者であった。
これは人民革命法廷(People’s Revolutionary Tribunals, TPRs)の創設により、劇的に変わった。この法廷は、汚職や横領の罪を罰するための抑圧と教育上、そして公人としての強い倫理観を植え付けるために創設された。サンカラの下で内務大臣として働いていたErnest Nongma Ouédraogohaは、この法廷の創設の目的は「人々を呼び覚まし、汚職から人々を守るため」だったと後に語った。
この新しい法廷は、これまでの案件につき1人の裁判官が担当していた古い法廷の手続きから離れ、1人の裁判官ともしかしたら軍人か警官、そして地元の革命防衛委員会によって選ばれた5人か6人の市民を含む判事団が担うこととなった。この裁判は公開で行われ、しばしば聴衆を集め、その審理の過程はラジオで生放送された。そしてそれが録音されたカセットテープが街中でよく売られていた。
最初の裁判は1984年1月、Lamizana将軍が特別大統領費からお金を転用したと告発された案件を取り扱った。広範囲にわたる意見聴取が行われた後、Lamizana将軍は自分自身の為ではなく、主に様々な個人を助けるために使っていたことが分かったため、陪審団たちは多数決により無罪とした。ただ、誰もがそんなに幸運ではなかった。それから6か月間に44人の元政府関係者(大臣や高官を含む)が被告となり、10数回以上の法廷が開かれた。これにより、12人は無罪となったが、残りは着服したお金の返還などが命じられた。さらに多くの被告は実刑判決を受けた。例えば、Saye Zerbo大佐は着服と税金詐欺などで8年の刑を受けた。また、約40件の審理は革命防衛委員会の下で約1000人を裁いた。
また、すべての懲戒処分が裁判を招く形にしなかった。無気力に動く官僚機構を刷新するため、多くの公務員は能力がなく、バーで時間を費やすか、政治的に不実であるということから、簡単に解雇された。
ブルキナファソでは公務員の給与は一般のほとんどの人よりも高く、公共部門は政府予算のうち大きな部分を占めていた。多くのボーナスは簡単に廃止された。いくつもの「連帯」資金は、公務員の給与から差し引かれた寄付とともに、干ばつ被害者への支援か公共投資として準備された。このやり方は、社会での高い所得層がより大きな利益の共有を諦めなざるを得ない形となったが、多くの公務員への不満がみられたために考えられた。
大臣や他の高官は必要経費を失った。政府の保有している車両の2/3は売られ、使用者が大臣であれ、小型車のみが残された。公務員は個人的に車両が割り振られ、許可なく外部で利用することは(非公式な商業活動に使用することを防ぐために)厳しく禁じられた。
1985年8月、革命国民評議会は事前の知らせもなく政府を解散させた。すべての閣僚が解任され、地方での集団農業計画に閣僚が転任された。その後、そのほとんどは再度閣僚に指名された。同じような政府の解散、再建は2度の8月にそれぞれ起こった。これに関してサンカラは、これは「革命の教育的な方法」であり、大臣の指名は個人が役職に就くという廃止できない(ほとんど仕事をしなくても給与がもらえる)閑職であり、その「神話」を破壊するために考えられたと述べ、「誰もが、大臣は奉仕者に過ぎないことを知らなければならない。そして軍人は政府の役割を担うための準備をしなければならない」と語っている。

<人々の軍?>
他の国家の組織のように、軍自体も著しく変化した。時々、政治家の言葉遣いは熱狂させた。革命国民評議会の指導者たちは、軍を「非植民地化」し、官僚機構の道具から奉仕者へと変化させる必要性を主張した。サンカラは軍に関する初期の仕事の中で、「訓練をしていない兵士はまさに権力の中の犯罪者である」と述べ、しばしば政治的で市民的な地位の重要性の向上を強調した。
ただ、軍の再建の過程はより秩序だっていた。軍の指揮系統は普段通りに続き、サンカラの急進的な動きに反対する高官たちは死か禁固となり、軍の中に残っているすべての将軍たちの強制的な退役により、一番尖っていた勢力は基本的に切り落とされた。その後、誰にもこの地位を作られなかったため、数年間軍は将軍を欠いた形のままとなった。
他の政府機関のように、軍もまた旧政権の下で汚職や不当利益の影響を受けていた。国を綺麗にするため、革命国民評議会は人民革命法廷よりも先に何人もの高官を逮捕し、罪を明らかにし、何人かを刑務所に入れた。そして、新しく「革命規律(revolutionary discipline)」委員会が、着服や窃盗、規律違反などの案件を聴取するため、軍の内部に設立された。さらに、「守備委員会(garrison committees)」が士官(officers and ranks)などからなる総会により選ばれた代表者たちとともに、市民の革命防衛委員会に沿う形で設立された。ブルキナファソ南部のPôにある軍事訓練基地での教育プログラムは、最初から基礎的な士官の訓練を含む形で拡大されていたため、士官を訓練のために海外に送ることはなくなった。
最も特徴的なサンカラの軍事訓練と公共事業、開発事業をつなげた早期の実験は、計画的であった。国内にある軍事基地では自家栽培と家畜の飼育が始められ、森林破壊に対する植林計画や町や村の掃除、井戸掘り、学校や診療所、道路などの建設が行われた。
その実際の影響は別として、このような活動は、兵士が人を見下したような態度の生成を防ぐことを助けるとともに、市民に対して軍の通常の機能とともにその存在を納得させるという教育的な機能を持ち、また経済の前進にも寄与することとなった。
1984年、農業についてサンカラは私に、兵士たちはブルキナファソの労働者たちがどのように苦しんでいるのかをもっと思い起こすことにより、兵士たちは特権を持った集団ではなく、自分たち自身を人々の中の一部として見続けるだろうと述べ、「これが我々が軍の中に新しい精神を作る方法だ」と語った。また彼は、軍事訓練は革命防衛委員会や予備役兵の設立を通し、「軍事的な性質を取り除く」という働きを持つ効果とともに、市民の支援者へと広げられた。これ以降、防衛組織は軍隊だけで構成されないようになる。そのことについて彼は「それ(防衛組織)はすべての人々によって構成される。このようなことが可能なのは、人々が私たちのことを信頼しているからだ。あなたはどのぐらいのアフリカの国々が市民に武器を与えていると思うか?」と語った。
しかし、現実はそんなにバラ色ではなかった。若く経験の少ない革命防衛委員会の活動家たちを武装させることは、虐待を招いた。そして、1985年12月後半に起こったマリとの短い国境紛争では、正規軍の弱点が露呈されることとなった。マリは、論争となっている地域でのブルキナファソの国勢調査員たちの存在を利用し、それを攻撃の正当性の理由とし、ブルキナファソを攻撃した。ブルキナファソ軍は、少数の戦闘機、数台の戦車、あるいは装甲車のみしか保持しておらず、装備が整い、数も多いマリ軍よりも劣っていた。そのため、ブルキナファソ側は大きな痛手を負った。ただ、幸いにも5日後に仲介者たちが停戦の交渉を行い、両国は国際司法裁判所による国境紛争を調停する案に合意した。
いくつかの武装した革命防衛委員会や民兵の部隊は、国境紛争の際に軍に加わっていたが、実際には人々の動員は軍の基本的な欠点を補うことはできなかった。サンカラは革命防衛委員会が「兵器に関してお金を使うということは犯罪である」と見られるであろうと信じており、軍への装備を顧みないでいたことを認めた。サンカラが大統領の座にいた期間、常備軍の合計はきっちり9000人に抑えられていた。軍事費は国家の支出の中で、革命防衛委員会が最初に使った額よりも少し多い約19%を前後していた。

<地方分権化>
革命防衛委員会によって考えられた新しい国家は、汚職を少なく、より効果的にするという目的だけでなく、最初から主要な都市の外へと広げられていた。前政権は、周辺地域に対して間接的で広範に、伝統的な首長や他の地元の名士を通した統治のみを試みていた。彼らは、首都やいくつかの他の中心都市以外に、行政組織を作る必要性がほとんどないと感じていた。しかし、サンカラの政府は地方の人々への公共サービスを広げ、伝統的な首長の支配を壊すための改善を行い、国家の限られた領域による到達点を大幅に広げる必要があった。
革命防衛委員会はこの中で主要な役割を担った。この委員会の役割は、開発計画のために地元の地域社会の動員を助け、革命国民評議会を政治的に支援することであったが、自治区の役割も担っていた。サンカラは、同委員会を「村や都市近郊、職場における革命勢力の代表」であると呼んでいた。
革命防衛委員会はの基本的な意思決定機関は、すべての構成員が参加し議論する定例会や総会で多数決によって決められた。総会は同委員会内の上位機関と連絡を取り、直接活動するため、同委員会の支局の9人を選んだ。地域の革命防衛委員会はとても人気があったが、そのほとんどは教育を受けておらず、読み書きができず、自分たちの言語以外の言語を話すことができない、謙虚な社会からの出の人々で溢れていた。
革命防衛委員会は、基本的な社会サービスの供給を確保し、幅広い地域の責任を引き受けなければならなかった。また、ブルキナファソの周辺部の大半で、特に「公的サービスが不足している」地域では政治勢力の中心となった。そして、同委員会は国家機構の再構築のために基礎的なブロックとなった。
同委員会は、伝統的な首長と直接競争する役割を果たした。これは同国において植民地から独立した後の歴史の中で、村にある首長や長老の評議会以外の組織として初めてのことだった。これは少なくとも権力の移行の始まりを表していた。中央政府は首長の地位を弱めるために介入した。首長の特権は以前から挑戦を受けていたが、サンカラはそれをさらに推し進めた。1983年12月、サンカラは首長の指名や首長の領有支配権に関するすべての法律の全廃を命じ、首長が持つ国家に関する利益や徴税、あるいは贈答、勤労奉仕を受ける権利をはぎ取った。
この一か月前、革命国民評議会は新しい地域分割と地方政府機構を作り始めた。これにより、ブルキナファソの人口に合ったより良い行政を確かにするため、前政権よりもより小さい領域である30の行政区域(provinces)が作られ、これらの下には300の新しい県(departments)が、1行政区域につき10県の割合で作られた。そして、その下には村や都市共同体があった。各行政区域は、その県の中に含まれる村や町の革命防衛委員会により選ばれた評議会によって管理されたが、その区域のトップは中央政府により直接指名された高官(grefect)であった。中心都市の役割を果たしている30の都市共同体は、政府が指名した「特別代表団」と(政府の指名を受けた市長のいるブルキナファソの首都を除き)革命防衛委員会によって選ばれた首長たちにより運営された。
その権限を地域のレベルにまで拡大していくことにより、政府は非常に多くの課題に直面した。単純に新しい行政機構の公務員を追加で募集するための財源を持たなかったため、中央省庁の機能や人員を部分的に分散し、各省庁の割り当てをさらにその行政区域へ働く職員の10%を追加する形とした。
過去において、ほとんどの市民は国の代表者たちと接触を持たなかったが、今は良かれ悪しかれ、彼らの日常の生活の中で国家はより活動的な存在になっていった。

日本語によるソマリア紹介   since 2014-10-18